AIエージェントとする仕事はペアワークだった

思考メモ

AIの性能があがっていったことで、仕事してるときはずっと横に人がいてくれてる感じになった。Claude Codeを使うようになったら、自分はチャットでやりとりするだけで成果物ができて、リファインもしていける。

なんだか懐かしい感覚があった。この感覚は何だっけ?と思ったけど、これはペアプログラミングしてたときの感覚だ。しかも、ドライバーではなくナビゲーター(助手席)にいるときの感覚。

出来上がっていくものを見て、あれこれ言う感じ。適度に意見を交わしたりしながらも、こちらはキーボードは触 … もっと見る

AIの性能があがっていったことで、仕事してるときはずっと横に人がいてくれてる感じになった。Claude Codeを使うようになったら、自分はチャットでやりとりするだけで成果物ができて、リファインもしていける。

なんだか懐かしい感覚があった。この感覚は何だっけ?と思ったけど、これはペアプログラミングしてたときの感覚だ。しかも、ドライバーではなくナビゲーター(助手席)にいるときの感覚。

出来上がっていくものを見て、あれこれ言う感じ。適度に意見を交わしたりしながらも、こちらはキーボードは触らないで、出来上がっていく。

AIとペアプログラミングもとい、ペアワークしてたのか。生産性が高まるわけだ。

人間のペアとの違いがある。AIは疲れない。だからずっと続けられる。思考時間はかかるが、それは相手が人間でも同じ。AIを相手にするなら、同時に何人?ものAIとは並行でやりとりできるし、失礼には当たらない。限界は人間側にある。

そして、今まで始めるまでが億劫だったものも、相手がいるからか始めやすくなった。「始めやすい」の中身は二つある。一つは、一緒にやる人がいたらサボれないのでやれるということ。

もう一つは、いきなり成果物に向かわずに、会話から始められるということ。会話から入れるのは単に気楽だからという話だけではなくて、会話すること自体が思考の整理であり設計行為になっている。

ペアプロでもコードを書く前に「これから何をやるか」を口頭で確認するプロセスがあった。あれは雑談ではなく設計だった。AIとのチャットでも同じことが起きている。ザッソウ(雑に相談すること)で考えがまとまっていく、あの感覚。

ナビゲーターとして人間がしていることは、方向性を示す、間違いに気づく、一歩引いた視点で全体を見る。これはAIが相手でも人間が相手でも変わらない。ドライバー(コードを書く側)がAIに替わっても、ナビゲーターの仕事はそのまま残る。

AIの生産性に対して、人間はレビューだけするようになるという言説もあるが、ペアワークをしていると、ペアプログラミングで言われるメリットと同じでAIが書き込む瞬間に一緒にレビューしている状態になる。そうなると、レビューしているという感覚ではなく、共同作業をしていると感じる。

その状態が続くから、レビューだけでつまらないということはない。そして、AIが作って、自分が作った感が無いという問題も解消される。ペアワークでは、AIとの共同作業なので、これは自分で作った感覚は残る。

一方で、AIとのペアワークには「終わらない」という問題がある。ミーティングなら時間がきたら終わるし、相手を拘束するのも悪いから区切りがつく。だけどAIはずっと付き合ってくれる。

AIは「疲れない」というメリットの裏面として、際限なく続けてしまうリスクがある。強制的に仕事以外の時間を作らないと、身体を壊す。

対処として、仕事が終わったら終わる、ではなく、カレンダーに仕事以外の予定を先に入れてしまう。ジムにいく、本を読む、散歩にいく。仕事の終了を成果ではなく時間で区切る。時間割で働く。これが本当のワークライフバランスかもしれないな。

「頭がいい」が武器にならなくなる時代

思考メモ

かつては(というほど昔ではないが)AIの使い方といえば、会話する、検索の代わりに聞く、その程度だった。

それが今では、エージェントとして人間の代わりに仕事をしてもらう段階に入っている。実際に使っていると、よほど頭のいい人と一緒に仕事をしている感覚。

大げさではなく、「新しい人類が来ている」という実感がある。

AIの話になると、多くの人が「人間は人間の得意なこと、AIはAIの得意なこと」と言う。棲み分けの発想だ。

しかし私は、そう楽観的には考えられない。人間にでき … もっと見る

かつては(というほど昔ではないが)AIの使い方といえば、会話する、検索の代わりに聞く、その程度だった。

それが今では、エージェントとして人間の代わりに仕事をしてもらう段階に入っている。実際に使っていると、よほど頭のいい人と一緒に仕事をしている感覚。

大げさではなく、「新しい人類が来ている」という実感がある。

AIの話になると、多くの人が「人間は人間の得意なこと、AIはAIの得意なこと」と言う。棲み分けの発想だ。

しかし私は、そう楽観的には考えられない。人間にできることは、いずれAIにもできるようになるのではないか。

棲み分けようとすれば、AIの領域が広がるたびに居場所を明け渡していくだけだ。いずれレジスタンスのように抵抗するだけになる。それは得策ではない。

歴史を振り返ってみると、原始時代から中世にかけて、世界を支配していたのは武力だった。

力が強い者が支配した。武力なしには国も領土も守れなかった。身体の力こそが価値だった時代。それを変えたのが銃の登場だ。人間の筋力では対抗できないものが現れた。機関車や自動車もそう。

力そのものではなく「力をどう使うか」が問われるようになった。武力の時代から知力の時代への転換。

現代社会では、どれほど腕力が強くても、それだけで評価されることはない。身体の力は、かつての圧倒的な価値を失った。同じことが、今度は知力に起きようとしている。

AIは、そんじょそこらの頭のいい人より頭がいい。筋肉より強い銃が出てきたのと同じ構造ではないか。知力で戦おうとしても勝てないものが出現した。

知力だけを武器にしていた人が、かつて武力だけを武器にしていた人と同じ位置に立たされるのではないか。知力そのものの価値が、武力と同じように相対化される時代。

AIによる変化を、IT革命や産業革命と同じレベルで語る人が多い。私はもっと大きな括りだと考えている。

武力から知力への転換と同じスケールの、時代そのものの移行。「仕事が効率化される」「一部の仕事がなくなる」といった話もあるが、そのレベルではない。社会の根本的な価値観が変わるのではないかと思っている。

私たちが生きているうちに来てしまう変化だと思う。

武力の次に知力が来た。では、知力の次には何が来るのか。

正直なところ、まだ答えは出ていない。ただ、少なくとも知力だけに頼る時代は終わりつつある。日々AIと仕事をしていて、それだけは強く感じている。

“Content is King” は終わるのか〜ブログへの原点回帰

思考メモ

1996年、ビル・ゲイツが "Content is King(コンテンツ・イズ・キング)" というエッセイを発表した。インターネットによって情報を届けるコストがゼロになる。そうなれば、良いコンテンツを持つ者が勝つ。そんな主張だった。

原文の趣旨は「インターネットで本当に金を生むのはコンテンツだ」という話だったが、やがて「良いコンテンツを作れば人が集まる」という意味で広く使われるようになった。

そして実際にそうなった。ブログ、SNS、YouTubeと、個人が発信できるメディアが増え、コンテンツを作れる人が … もっと見る

1996年、ビル・ゲイツが “Content is King(コンテンツ・イズ・キング)” というエッセイを発表した。インターネットによって情報を届けるコストがゼロになる。そうなれば、良いコンテンツを持つ者が勝つ。そんな主張だった。

原文の趣旨は「インターネットで本当に金を生むのはコンテンツだ」という話だったが、やがて「良いコンテンツを作れば人が集まる」という意味で広く使われるようになった。

そして実際にそうなった。ブログ、SNS、YouTubeと、個人が発信できるメディアが増え、コンテンツを作れる人が影響力を持つ時代が来た。「発信の民主化」だ。しかし今、AIによって情報を作るコストもゼロに近づきつつある。

「発信の民主化」の次に来たのは「生成の民主化」だ。届けるコストがゼロの世界に、作るコストがゼロのコンテンツが大量に流れ込んでいる。

こうなると、コンテンツの供給は実質的に無限になる。供給が無限なら、コンテンツそのものの価値はゼロに近づいていく。

メディアにしても、検索結果にしても、AIが書いた「そこそこ良い記事」が溢れかえる。キュレーションで選別しようにも、その選別自体をAIに頼ることになり、最終的には「AIが書き、AIが選び、AIが届ける」という人間不在の循環に向かっているように感じる。

では “Content is King” は終わるのか。

終わるのはコンテンツそのものではない。終わるのは「集客のためのコンテンツ」ではないだろうか。

SEO対策のために書かれた記事、バズを狙って量産されたコンテンツ、アテンションを集めることが目的の発信。こうした「集客装置としてのコンテンツ」は、AIが最も得意とするところであり、真っ先に置き換えられる。コンテンツだけで稼ごうとするモデルは、AIによって無効化されていくだろう。

一方で、実践や体験に裏打ちされた考察、つまり「活動の記録としてのコンテンツ」は残る。実際に何かをやった人が、その過程で考えたことを書き残す。そこには、AIには生成できない固有の文脈がある。同じテンプレートで量産できないし、時間が経っても価値は減らない。むしろ後から振り返ったときに意味が増すことさえある。

つまり大事なのは、コンテンツの質そのものよりも、「誰が書いているのか」であり、さらに言えば「その人は何をしているのか、何を為したのか」だ。コンテンツの裏側に実体のある活動があるかどうか。実力や実績を伴う発信だけが、信頼されるものとして残っていくのではないか。

そう考えると、これまでのコンテンツマーケティングの常識は逆転しないか。できるだけ多くの人に届けるための最適化、つまり集客のテクニックに注力するのではなく、実体のある活動に集中して、その記録を淡々と残していく。欲しい人に着実に届けばそれでいい。

この先さらにAIによるマッチングの精度が上がっていけば、プロモーションのテクニックなしに、必要な人に必要なコンテンツが届く世界がありうる。それはまだ仮説に過ぎないけれど、もしそうなるのであれば、それは実に健全な状態だと思う。

考えてみれば、ブログとは元々 “Web Log”、つまりウェブ上の記録だった。自分の考えや活動を、未来の自分のために書き残しておく場所。それがSEOやソーシャルメディアの時代に「集客装置」に変質していった。AIがその集客装置としての役割を終わらせるなら、ブログは本来の姿に戻ることになる。

“Content is King” の終焉は、ブログの終わりではなく、ブログへの原点回帰なのかもしれないな。

プログラマとは誰か〜プログラミングはコードを書くことではない

思考メモ

「AIがあればプログラマはいらなくなる」という話をよく耳にするようになった。たしかに、AIにお願いすれば動くコードが出てくる時代になった。人間がコードを書く必要などなくなった、と。それはその通りとしても「だから、プログラマは不要だ」というのは本当にそうだろうか。

そもそもプログラミングとは「コードを書く行為(コーディング)」のことではない。ソフトウェアで問題を解決する知的活動の全体を指している。何を作るか考え、何を作らないか判断し、どう構成するか設計し、動くものに仕上げ、運用し続ける … もっと見る

「AIがあればプログラマはいらなくなる」という話をよく耳にするようになった。たしかに、AIにお願いすれば動くコードが出てくる時代になった。人間がコードを書く必要などなくなった、と。それはその通りとしても「だから、プログラマは不要だ」というのは本当にそうだろうか。

そもそもプログラミングとは「コードを書く行為(コーディング)」のことではない。ソフトウェアで問題を解決する知的活動の全体を指している。何を作るか考え、何を作らないか判断し、どう構成するか設計し、動くものに仕上げ、運用し続ける。その一連の営みがプログラミングだと私は考えている。

今、AIはその全工程で力を発揮している。設計の壁打ち、コードの生成、テストの作成、ドキュメントの整備。人が手を使って何かをすることはなく、AIエージェントに指示することで、作られていく。プログラミングのあらゆる場面が加速するようになった。かつてのプログラミングとは、もう別物と言っていい。

その結果、プログラミングの敷居は確実に下がった。たとえば、経理担当がAIを使って自社の業務ツールを作れるようになるかもしれない。これまでコードを書けなかった人が、ソフトウェアで自分の問題を解決できる。これは「プログラマが不要になった」のではない。誰でもプログラマになれるようになった、ということではないか。

ただし、経理担当が作れるのは、あくまで自分の手元の業務を助けるツールだろう。会社全体の経理システムを設計し、セキュリティを担保し、長期にわたって運用し続けることは、また別の話だ。複雑なシステムになればなるほど、設計の質、判断の精度、責任を持って維持し続ける力が求められる。そこに、プロフェッショナルなプログラマの価値がある。

つまり、AIによって「プログラマが不要になる」のではなく「プログラマの裾野が広がる」ということだ。裾野が広がった上で、なお高い成果を出せるプロが求められる。これは、多くの仕事と同じ構造だろう。

私たちソニックガーデンでも、日々のソフトウェア開発でAIを積極的に使う試行錯誤を続けている。手でコードを書く時間は減っているが、プログラミングの密度はむしろ上がっている。何を作り、何を作らないか。どう設計すれば長く使えるか。考えることに、より多くの時間を使えるようになった。

プログラマとは、コードを書く人のことではない。ソフトウェアで問題を解決する人のことだ。AIの時代になって、その意味がようやくはっきりしてきたように思う。プログラマの裾野が広がることも大歓迎だ。

試行錯誤が面白いのは、主体性があるからだ

思考メモ

今日の取材の中で、ソフトウェア開発の面白さについて話しているうちに、自分の中で改めて気がついた。

もしかして、人が幸せを感じるのは、「挑戦→試行錯誤→成長」のサイクルが回っている時なのではないか。これは、難易度と能力のちょうど良いところにいる「フロー状態」の話ではあるけど、試行錯誤がポイントなのかもしれないな、と。

何かに挑戦する。難しいからすぐにはできない。試行錯誤する。できるようになる。成長を実感する。すると、もう少し難しいことに挑みたくなる。また試行錯誤する。またでき … もっと見る

今日の取材の中で、ソフトウェア開発の面白さについて話しているうちに、自分の中で改めて気がついた。

もしかして、人が幸せを感じるのは、「挑戦→試行錯誤→成長」のサイクルが回っている時なのではないか。これは、難易度と能力のちょうど良いところにいる「フロー状態」の話ではあるけど、試行錯誤がポイントなのかもしれないな、と。

何かに挑戦する。難しいからすぐにはできない。試行錯誤する。できるようになる。成長を実感する。すると、もう少し難しいことに挑みたくなる。また試行錯誤する。またできるようになる。

このサイクルが回り続けている時、人は充実を感じているように思う。仕事とか趣味とか生活とか関係なく、ここに人生を充実させるヒントがありそう。

ただ、同じ試行錯誤でも、面白い時とそうでない時がある。

ゲームやパズルを自分で解こうとしている時の試行錯誤は楽しい。でも、誰かに「これ解け」と言われてやらされる試行錯誤は、ただの苦行になる。やっていることは同じなのに、まるで違うものになってしまう。

その違いは「主体性」があるかどうかではないか。内発的動機付けと言ってもいい。

自分でやりたいと思ってやっている試行錯誤は面白い。望んでもいないのに試行錯誤させられるのは、ただの労働であり義務でしかない。主体性がなければ、挑戦は義務になり、試行錯誤は苦痛になり、成長しても喜びにならない。

「挑戦→試行錯誤→成長」のサイクルを回すエンジンは、主体性なのだろう。

どんな仕事でも、単にお金を稼ぐための労働だと思っているうちは、このサイクルには入れない。だけど、仕事が自らの挑戦の機会であり、試行錯誤ができる場所であり、そこから成長が得られるものだと捉えることができたら、労働として過ごす人生よりも、ずっと幸せなんじゃないか。

それこそが、仕事を「技芸」とする考え方なのだ。

一周回って、また自分の手でキーボードを叩いて文章を書いている

思考メモ

なんだか最近は、一周回って自分の手でキーボードを打って文章を書いている。そういえば出始めの頃からAIを使って文章を書くのを試してきた。

最初のうちは全然だめだった。結局、自分で書いた方が早いし、品質も良かった。書かせることは諦めて、校正とか誤字チェックとかに使っていた。

段々と性能があがって、短めの文章なら頼んでも良いかという感じになった。適当なメモを渡しても、それなりの文章が書けるようになった。

それでも、長い文章は難しかったし、自分らしい表現は無理だった。

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なんだか最近は、一周回って自分の手でキーボードを打って文章を書いている。そういえば出始めの頃からAIを使って文章を書くのを試してきた。

最初のうちは全然だめだった。結局、自分で書いた方が早いし、品質も良かった。書かせることは諦めて、校正とか誤字チェックとかに使っていた。

段々と性能があがって、短めの文章なら頼んでも良いかという感じになった。適当なメモを渡しても、それなりの文章が書けるようになった。

それでも、長い文章は難しかったし、自分らしい表現は無理だった。

次に取り組んだのが、協働スタイル。構成を練るところから往復しながら、何度も書き直しをさせて、文章を組んでいく形。一定の段落ごとに書いていく感じはできた。

そうこうしているうちに、長文を読み込めるようになった。そこで、自分のブログを全部、読み込ませてみると、それなりに自分らしい文章を書いてくれるようになった。

ここで長年のブログを書いてきたことが活きた感じがする。公開されたブログなので、自分が著者であることを明示すれば、それまでの思想を前提とした文章が書けるようになった。

そうすると、書きたいテーマだけ与えれば、それを元に、いくつか構成案を考えるので、そこから選ぶ。出してくれた選択肢から選んだら、文章を書いてもらう。

書いてもらう際に、自分なりのエピソードなどを入れたいと指示して、ヒアリングをしてもらう。AIからの質問に答えていくと、それが文章になる。

自分のブログをもとに、新しいブログ記事が書かれていく。もしかすると私はいなくても、今後も再生産し続けるのではないか、という気がしてくる。それも良いか、と思う。

ただ過去を学習したAIは、それなりに「らしい」文章を書くのだが、それは過去の自分の考えでしかない。書かせてみたものの、自分では面白いとは思えない。

しかも、こちらも文章を書き続けてきた身としては、読み手としても経験値がある。

叩き台としての文章としては良いけれど、どうも自分としては気持ちの悪い表現も残る。その都度、学習させていっても、どうしてもAIは常識側に引っ張られている感じがする。

そう、段々とAIは賢くなった結果、とても優等生で、常識的な知能になってきている感じがする。ただの印象かもしれないけれど。一般的に喜ばれることを書こうとしがちだ。

なんだか違うんだよなーと思いながら、修正しているうちに、結局は全部書くことになっている。

もしくは、ざっと書いて渡したメモをもとに文章を書いてもらっても、なんだか小綺麗ではあるけど、勢いがなくなってしまっている。

だから、結局は、自分の手で書いたメモを、そのままブログやSNSに載せるようになった。けど、その方が沢山の反応をもらえてる気はする。

読むのが人間なので、雑なままでも、言葉足らずでも、綺麗な文章でなくても理解してくれる。もっと読んでくれる人間の知性を信じて良いのではないか。

果たして、人間が書いて人間が読む文章の間に、AIを介在させる意味はあるのだろうか。

そういえば自分にとって「書くこと」は思考を深めるための時間でもあった。書くことで考えが整理された。それは自分のための豊かな時間の使い方だ。そんな贅沢をAIに渡してしまうなんて。

では今の私にとってのAIはどんな役割なのか。過去の自分を覚えてくれている存在で、思考を促進するためのアイデアを出してくれる存在で、最初の読者として感想をくれる存在。

まぁ、すぐにまた変わるだろうけど。

経済合理性だけではエンジニアを育てることは難しい時代にどうするか

思考メモ

この記事、会員登録部分までぜひ読んでほしい内容だった。
『まつもとゆきひろが危惧する、ジュニア不要論の先に広がるIT業界「焼け野原」』

この記事のまつもとさんの意見、本当にそう思う。私も同様の危機感は感じている。

とはいえ、事業会社を経営する立場としては経済合理性を考えると、内製のエンジニアチームでのジュニアの育成は説明可能な妥当性がなくて苦しい。

なぜなら、ジュニアの育成は、半年や1年では成果は出ない。新人研修やっただけでできる仕事ではないのがソフトウェア開発 … もっと見る

この記事、会員登録部分までぜひ読んでほしい内容だった。
『まつもとゆきひろが危惧する、ジュニア不要論の先に広がるIT業界「焼け野原」』

この記事のまつもとさんの意見、本当にそう思う。私も同様の危機感は感じている。

とはいえ、事業会社を経営する立場としては経済合理性を考えると、内製のエンジニアチームでのジュニアの育成は説明可能な妥当性がなくて苦しい。

なぜなら、ジュニアの育成は、半年や1年では成果は出ない。新人研修やっただけでできる仕事ではないのがソフトウェア開発というものだから。

そして、ジュニアがいてもチームの生産性は高くなるどころか、育成コストを考えると全体の生産性が下がるのは目に見えている。そこに、さらにベテランとジュニアのAI活用による格差が広がっている。

今は転職が当たり前になった業界で、それ自体は良いこととするならば、数年かけて育成に時間と労力をかける判断に踏み切るのは簡単なことではない。

そうした中でも、ソニックガーデンではジュニアからの育成に取り組んでいる。大卒の新卒に限らず、未経験の第2新卒で他業種から転職してきた若者たちを受け入れて、徒弟制度で育てている。

もちろん短期的な経済合理性はないけれど、「いいソフトウェアをつくる。」という理念があるので、その理念に沿った活動として取り組んでいる。理念合理性と呼んでいる。

最近は、中学生に向けたプログラミング部活動「セタプロ」や、大学生の就業体験を兼ねた訓練「トレセン」なども取り組んでいる。

一生懸命にソフトウェア開発の作品作りに熱中して、そのために学んで練習を重ねている姿を見て感じることは、AIがどうなろうと、ここで頑張ったことは無駄にはならないだろうな、と。

効率だけを追い求めた先に「焼け野原」が広がるというのなら、効率やコスパという言葉で片付けられないような活動をするしか、肥沃な大地には育たないのではないかな。

ソフトウェアを作る人数は、今よりも全然少なくて済むようになる

思考メモ

生成AIでソフトウェア開発がなくなるというよりは、一人で出来る範囲と量が増えるので、一つのソフトウェアを作るための人数が今よりも全然少なくて済むようになる、という感じなのでは。

(これは過去の技術革新で起きてきたことでもある)

先日、400人が投入されている大規模開発プロジェクトを目の当たりにしたが、ああいうのこそ、10分の1の人数で解決できそうだし、解決できるという世界にしていきたい。

「立派な会社のシステムは、多人数でないと作れない」というのは思い込みだと思っている … もっと見る

生成AIでソフトウェア開発がなくなるというよりは、一人で出来る範囲と量が増えるので、一つのソフトウェアを作るための人数が今よりも全然少なくて済むようになる、という感じなのでは。

(これは過去の技術革新で起きてきたことでもある)

先日、400人が投入されている大規模開発プロジェクトを目の当たりにしたが、ああいうのこそ、10分の1の人数で解決できそうだし、解決できるという世界にしていきたい。

「立派な会社のシステムは、多人数でないと作れない」というのは思い込みだと思っている。

以前から言い続けてきたが、ソフトウェア開発は「人数」ではなく「難易度」の問題である。同じ人数で良いが、熟練度の違う人材を集めた方が良い。

巨大なシステムは難易度が高く、熟練の人材が必要で、小さなシステムは難易度が低いので、経験の浅い人材でも出来る。

同じソフトウェアをつくるのに、「熟練の3人」と「初心者の30人」、どちらが速く・良いものを作ることができるのか。リアリティーあるのは、その両者を混ぜた体制だが、それでも「熟練の3人」が勝る。

人数は多くしない方が生産性は高い。

人が増えても速くならない。これは今も昔も変わらない真理。

人海戦術から解放されるなら、エンジニアは少ない人数で全体を把握し、ユーザーに近いところで、分業せずに「自分の作品」として作れるようになる。これこそがソフトウェア開発の楽しさであり、エンジニアにとっての「福音」ではないか。

生成AIで、コードを書くことがなくなって寂しいというのは本当か?タイピングしたかったのか。しょうもないバグを修正したかったのか。本当にしたかったのは、優れたソフトウェアを生み出して、ユーザに喜んでもらうことだったのではないか。

そもそも、ソフトウェア開発をハードウェアの生産ラインのように「工場」として扱おうとしたのが間違いだったのだ。ソフトウェア開発は、作品作りであり、取り組むこと自体にも喜びのある技芸に回帰していきたい。それが仕事技芸論なのだ。

一つのソフトウェアを作るのに必要な人材は少なくなっても、社会から求められるソフトウェアの総数は、これまで以上に増えていく。それは生成AIとかでてくる以前から言われていることだ。

これからの開発者(エンジニア)には、求められることは増えていくし、難易度は高まっていく。プロとして求められる基準は、ぐっと上がっていく。スクール出て、プログラミング言語が使える位ではプロにはならない。

だけど、その方が健全なんだと思う。そして難しい仕事はなくならない。

だからこそ、より難しいことに挑戦し、より高みを目指していくような開発者になりたい若者たちは応援したいし、サポートしていきたい。人数は多くなくても良い。ソニックガーデンで取り組んでいる活動の芯にはこれがある。

ソフトウェア開発は、少ない人数で、より多くの価値を、より楽しく生み出せるようになる。それは社会全体にとっても、素晴らしいことではないかな。

「コードを書く人」は消えても、「ソフトウェアを作る人」は生き残る。

思考メモ

コードを書く人は不要になっても、ソフトウェアを作る人はなくならない。かつてクラウドの登場でインフラとアプリの境界が溶けたように、AIは今、エンジニアの境界線を再び広げようとしている。

これから先、変化する部分と変化しない部分はどこにあるのか。

15年前、私が起業するタイミングでちょうどAWSが日本に上陸した。当時のクラウド革命は、インフラエンジニアの存亡が語られるほどの衝撃であった。しかし、実際に起きたのは「インフラエンジニアがアプリケーション開発も担う」という変化。

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コードを書く人は不要になっても、ソフトウェアを作る人はなくならない。かつてクラウドの登場でインフラとアプリの境界が溶けたように、AIは今、エンジニアの境界線を再び広げようとしている。

これから先、変化する部分と変化しない部分はどこにあるのか。

15年前、私が起業するタイミングでちょうどAWSが日本に上陸した。当時のクラウド革命は、インフラエンジニアの存亡が語られるほどの衝撃であった。しかし、実際に起きたのは「インフラエンジニアがアプリケーション開発も担う」という変化。

ソニックガーデンの起業当初にあったチームの境目は、クラウドによって消滅。インフラ担当のメンバーが自ら開発まで担う決断をしたことで、役割の壁は崩れてチームは大きく変わった。そのおかげで少ない人数で、今まで以上に大きなソフトウェアを作れるようになった。

けれど、変わらなかったのは「ソフトウェアを作る」という本質だった。顧客やユーザーがやりたいことを実現し、価値を形にする。その本質だけは、今も昔も変わっていない。

昨今のAIの登場も、これと同じ構図だと思う。単にコードを打つだけの役割は不要になるだろう。しかし、設計し、対話し、持続的に発展できるプロダクト全体を構築する「ソフトウェアを作る」その本質は変わらない。

なんだったら、作る過程が効率化されるのであれば、新技術は恩恵そのもの。提供すべき「価値」さえ明確であれば、変化を恐れる必要はないのではないか。

そして「ソフトウェアを作る人」をエンジニアと定義するなら、その役割が消えることはないだろう。

むしろ、ソフトウェアが事業の根幹を支える比重は高まり続けており、企業の規模や業態に限らず、どんな会社であってもソフトウェアが必要になってくる。需要は増すばかりだろう。

AIがすべてを解決するという極端な論調もあるが、現実はそう単純ではない。

スタートアップの初期段階ならAIだけで形にできるかもしれないが、事業が成長し、複雑性が増せば、経営者がすべてをこなすのは不可能だ。そもそも、事業が成長すれば経営者の仕事は増えるばかりで、そんな忙しい中で開発まではできない。

私はクラシコムの取締役CTOをしているけれど、AIがあるので社長や取締役が100億の企業のシステムの開発全部やれますか、というと、それは無理な話。経営者はあくまで「頼む立場」。AIを使いこなし、生産性を高めて事業を支えるのは、やはり「ソフトウェアを作る人」だろう。

そんなことすらAIで解決できる時代がくるかかも、なんてことを言い出せば、どんな大企業も社長一人でよくなる。いや、もはや投資家だけが必要で、社長すら要らないかもしれない・・・そんな風に「AIで未来はこうなる」と予測したがるけれど、予測など当たるとは思えない。

私たちがすべきは、当たらない未来予測に一喜一憂することではないはずだ。

10年、20年前の今を正確に予測できた者などおらず、予測をゴールに据えて突き進むのは、いわば「ウォーターフォール」な生き方と言える。しかし、人生には「リリースして終わり」のゴールはない。

未来が予測不能である以上、一つの未来に賭けるのはリスクでしかない。重要なのは、今この瞬間にできることを学び続け、変化に適応し続けること。

新しい機能やツールが出たら、すぐ試してみる。試せばまた何かがわかる。昨日までやっていたことが無駄になるかもしれないけれど、一歩は進んでいる。

こうした小さな変化の積み重ねこそが、どんな未来が来てもその瞬間ごとに適応できる力となるだろう。

遠くを見てジャンプするのではなく、足元から一歩ずつ。これは、開発手法としての「アジャイル」と同じ考え方。プロジェクトも、プロダクトも、そして個人の生き方も。アジャイルに変化を取り入れていくことこそが、結果として変化に強い状態を作るんじゃないかな。

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