「大変だけど、面白い」AI時代のナレッジワーカー

思考メモ

「マニュアルワーカー」と「ナレッジワーカー」の比較について、以前に書いた記事を読み直していた。

時代の変化とともにAIによって、再現性のない仕事、つまりクリエイティブな仕事も徐々に代替され得るようになる。この先より高度なナレッジワーカーが求められる方向なはず。これは大変だけど、面白い時代がくる。

そもそもナレッジワーカーの本質は単なる知識量ではない。生成AIによって、さらに知識は誰もが即座に引き出せる「コモディティ化された道具」になる。

今、改めて重要性が増しているのは、その道具を使って「何を成し遂げたいか」という主体性。

「もっと良くしたい」という本人の意志があって初めて、知識という道具は成果へと変換される。誰かに命令されて行う「創造的な仕事」など存在しない。自律的に考え、自ら判断を下す。その「意志」こそが、AIには代替し得ない人間ならではの価値の源泉となる。

・マニュアルワーカー: 指示に従い、手順をなぞることで価値を出す。
・ナレッジワーカー: 自ら工夫し、感性と意志を乗せて価値を創造する。

この境界線は、AI時代においてより一層鋭くなり、その差は大きくなっている。

ナレッジワーカーに求められるのは「判断」である。そして、重要な判断ができるのは経験によるところが大きい。若年層がAIを使うよりも、ベテランがAIを使う方が生産性が大きくなるのは、そこに起因している。

比較表にまとめた通り、ナレッジワーカーは「セルフマネジメント」で働く。これは自由であると同時に、常に「自分はどうしたいか」という問いに答え続けなければならない過酷な環境でもある。

指示を待つ方が楽かもしれない。正解がある仕事の方が安心かもしれない。しかし、AIがその「楽で安心な領域」を埋め尽くしていく未来において、人間に残されるのは、より高度で、より「主体的な判断」が求められる仕事だ。

責任範囲にこだわらず、他者と協働し、自らの感性を活かして成果を出す。仕事と生活を切り離すのではなく、仕事も人生の一部として楽しみ、成長の機会と捉える。

こうした生き方は、決して楽なものではない。常に自律を求められるのは、ある意味で大変なことだ。それでも面白いと考えているのはナゼか。

それは、マニュアルから解放され、自分の感性や意志を仕事に乗せることが、人間にとって最も根源的な喜びではないかと考えているからだ。自己決定できることは大きな幸せではないか。

効率や再現性だけを追い求めるならAIに分がある。しかし、そのプロセスに試行錯誤を加え、予想外の価値を生み出す楽しみは、人間にしか味わえない。

高度なナレッジワーカーへの道は、決して平坦ではない。しかし、AIという道具を手に、自律して未来を切り拓く。その「自由」を使いこなすことこそが、これからの時代の働く醍醐味なのだと思う。

(参考記事:ナレッジワーカーの本質は創造的な仕事と主体性

AIで生まれた時間を「思い出」に使う

思考メモ

AIを使って執筆するのは、本当に楽になった。 生産性は以前とは比べものにならないほど高い。(これも音声入力から生成している)

その一方で、少し不安になることがある。 「自分の手で文章を書く」という行為が、自分の中から消えてしまうのではないか、と。 それによって、文章を書く能力そのものが失われるのではないか、という不安。

もっとも、これは歴史の必然なのだ。 Googleマップのおかげで地図が読めなくなり、 スマホのおかげで電話番号を覚えなくなった。 私たちはそうやって、便利な道具に能力を預けてきた。 今回もそれを受け入れていくしかない、と思っている。

だが、能力の喪失よりも「怖い」と感じていることがある。 それは「記憶」が失われていくことだ。

AIを使って執筆した時間は、どうも記憶に残りにくい。 これはAIに限らず、デジタル全般に言えることかもしれない。 結果に早くたどり着きすぎるがゆえに、 その途中のプロセスが、ごっそりと抜け落ちてしまうのだ。

コロナ禍の数年間を思い出してみる。 家から一歩も出ず、オンラインで仕事が完結した。 生産性は以前より高まった気すらする。 しかし、その期間の記憶が自分の中にどれだけあるかというと、 実際、ほとんど残っていないのである。

物理的なものには、記憶を繋ぎ止める力がある。 私が「倉貫書房」で紙の本を大切にしているのも、そのためだ。 電子書籍で読んだ本の内容は忘れても、 紙の本は、読んだ場所やその時の空気まで覚えていたりする。 重さや手触りといった「身体性」が、記憶のフックになるのだろう。

Netflixでドラマを観てもすぐに忘れるが、 映画館で観た映画をいまだに覚えているのも、同じ理由だと思う。(それは年齢のせいだと言われたら否定はできないが)

さて、私の個人的な2026年のテーマは「豊かさとは何か」を探ること。 金銭的な面も生活の面もあるが、それらを超えた先に残るもの。 それは「思い出の量」ではないか、というのが考えている仮説の一つ。

どれだけお金を貯めたとしても、 語り合える思い出が何ひとつない晩年は、あまりに寂しい。 将来はたくさんの思い出を抱えていること、 そして現在はその思い出を作れる環境にいること自体が、豊かさにつながるのかもしれない。

だとするなら、デジタルだけに振りすぎてしまうと、何も残らないってことになりかねない。苦労や面倒なんて無い方がいいけれど、思い出が残らないなんて恐ろしい。物理的で身体的な体験はなくさないようにしたい。

これは、組織においても同じことが言えるのではないか。 会社なのだから経済合理性だけで考えれば、利益が出る方を選ぶのが正解だ。 しかし、利益は残るが仲間との思い出は残らない。 果たしてそれで豊かだと言えるのだろうか。

私たちソニックガーデンでは定期的に合宿を行っている。 全員がリアルに集まり、一晩を共にする。 交通費も宿泊費もかけて、わざわざ集まることに、 大きな経済合理性があるわけではない。

互いの人となりを知り、人間関係を築くことで仕事がやりやすくなるという側面はある。しかし、それだと結局は生産性のために取り組んでいるので、別の方法で生産性が出るなら合宿などしなくて良いとなってしまう。

だが「長く働く仲間との共通の思い出を作る」と考えれば、やはり欠かせない活動となる。だからこそ、合宿そのものの効率化はしない方がいい。ちょっと準備が大変だったり、多少のトラブルがあっても、それも思い出になる。

そして、これは社内に限った話ではない。私たちの「納品のない受託開発」だと、お客さまとも長い関係を築くことになる。だとしたら、その関係が続く中で思い出になるような合宿や懇親会をしていけば、関係に彩りが生まれる。

一緒に過ごす時間の中で、何を残すのか。 長く一緒にいようと考えれば考えるほど、思い出の重みは増していく。

合宿のような思い出にお金を使うという文化が私たちにはあり、 それを文化資本と言う。そうした文化に従った活動をした結果、思い出という財産になり、それが関係資本となる。そんな感じの会社でありたい。

AIやITで効率化した先に、何をするか。 浮いた時間をさらに効率化に回すのではなく、あえて身体的な「思い出」に振り分けてみる。 「思い出にお金を使える会社」って、他にはない気がするし、私たちにとっては豊かだと思えるし、結果として組織も強くなれるのかも。

ページ 1
ページ上部へ