AIエージェントとする仕事はペアワークだった

思考メモ

AIの性能があがっていったことで、仕事してるときはずっと横に人がいてくれてる感じになった。Claude Codeを使うようになったら、自分はチャットでやりとりするだけで成果物ができて、リファインもしていける。

なんだか懐かしい感覚があった。この感覚は何だっけ?と思ったけど、これはペアプログラミングしてたときの感覚だ。しかも、ドライバーではなくナビゲーター(助手席)にいるときの感覚。

出来上がっていくものを見て、あれこれ言う感じ。適度に意見を交わしたりしながらも、こちらはキーボードは触らないで、出来上がっていく。

AIとペアプログラミングもとい、ペアワークしてたのか。生産性が高まるわけだ。

人間のペアとの違いがある。AIは疲れない。だからずっと続けられる。思考時間はかかるが、それは相手が人間でも同じ。AIを相手にするなら、同時に何人?ものAIとは並行でやりとりできるし、失礼には当たらない。限界は人間側にある。

そして、今まで始めるまでが億劫だったものも、相手がいるからか始めやすくなった。「始めやすい」の中身は二つある。一つは、一緒にやる人がいたらサボれないのでやれるということ。

もう一つは、いきなり成果物に向かわずに、会話から始められるということ。会話から入れるのは単に気楽だからという話だけではなくて、会話すること自体が思考の整理であり設計行為になっている。

ペアプロでもコードを書く前に「これから何をやるか」を口頭で確認するプロセスがあった。あれは雑談ではなく設計だった。AIとのチャットでも同じことが起きている。ザッソウ(雑に相談すること)で考えがまとまっていく、あの感覚。

ナビゲーターとして人間がしていることは、方向性を示す、間違いに気づく、一歩引いた視点で全体を見る。これはAIが相手でも人間が相手でも変わらない。ドライバー(コードを書く側)がAIに替わっても、ナビゲーターの仕事はそのまま残る。

AIの生産性に対して、人間はレビューだけするようになるという言説もあるが、ペアワークをしていると、ペアプログラミングで言われるメリットと同じでAIが書き込む瞬間に一緒にレビューしている状態になる。そうなると、レビューしているという感覚ではなく、共同作業をしていると感じる。

その状態が続くから、レビューだけでつまらないということはない。そして、AIが作って、自分が作った感が無いという問題も解消される。ペアワークでは、AIとの共同作業なので、これは自分で作った感覚は残る。

一方で、AIとのペアワークには「終わらない」という問題がある。ミーティングなら時間がきたら終わるし、相手を拘束するのも悪いから区切りがつく。だけどAIはずっと付き合ってくれる。

AIは「疲れない」というメリットの裏面として、際限なく続けてしまうリスクがある。強制的に仕事以外の時間を作らないと、身体を壊す。

対処として、仕事が終わったら終わる、ではなく、カレンダーに仕事以外の予定を先に入れてしまう。ジムにいく、本を読む、散歩にいく。仕事の終了を成果ではなく時間で区切る。時間割で働く。これが本当のワークライフバランスかもしれないな。

「頭がいい」が武器にならなくなる時代

思考メモ

かつては(というほど昔ではないが)AIの使い方といえば、会話する、検索の代わりに聞く、その程度だった。

それが今では、エージェントとして人間の代わりに仕事をしてもらう段階に入っている。実際に使っていると、よほど頭のいい人と一緒に仕事をしている感覚。

大げさではなく、「新しい人類が来ている」という実感がある。

AIの話になると、多くの人が「人間は人間の得意なこと、AIはAIの得意なこと」と言う。棲み分けの発想だ。

しかし私は、そう楽観的には考えられない。人間にできることは、いずれAIにもできるようになるのではないか。

棲み分けようとすれば、AIの領域が広がるたびに居場所を明け渡していくだけだ。いずれレジスタンスのように抵抗するだけになる。それは得策ではない。

歴史を振り返ってみると、原始時代から中世にかけて、世界を支配していたのは武力だった。

力が強い者が支配した。武力なしには国も領土も守れなかった。身体の力こそが価値だった時代。それを変えたのが銃の登場だ。人間の筋力では対抗できないものが現れた。機関車や自動車もそう。

力そのものではなく「力をどう使うか」が問われるようになった。武力の時代から知力の時代への転換。

現代社会では、どれほど腕力が強くても、それだけで評価されることはない。身体の力は、かつての圧倒的な価値を失った。同じことが、今度は知力に起きようとしている。

AIは、そんじょそこらの頭のいい人より頭がいい。筋肉より強い銃が出てきたのと同じ構造ではないか。知力で戦おうとしても勝てないものが出現した。

知力だけを武器にしていた人が、かつて武力だけを武器にしていた人と同じ位置に立たされるのではないか。知力そのものの価値が、武力と同じように相対化される時代。

AIによる変化を、IT革命や産業革命と同じレベルで語る人が多い。私はもっと大きな括りだと考えている。

武力から知力への転換と同じスケールの、時代そのものの移行。「仕事が効率化される」「一部の仕事がなくなる」といった話もあるが、そのレベルではない。社会の根本的な価値観が変わるのではないかと思っている。

私たちが生きているうちに来てしまう変化だと思う。

武力の次に知力が来た。では、知力の次には何が来るのか。

正直なところ、まだ答えは出ていない。ただ、少なくとも知力だけに頼る時代は終わりつつある。日々AIと仕事をしていて、それだけは強く感じている。

“Content is King” は終わるのか〜ブログへの原点回帰

思考メモ

1996年、ビル・ゲイツが “Content is King(コンテンツ・イズ・キング)” というエッセイを発表した。インターネットによって情報を届けるコストがゼロになる。そうなれば、良いコンテンツを持つ者が勝つ。そんな主張だった。

原文の趣旨は「インターネットで本当に金を生むのはコンテンツだ」という話だったが、やがて「良いコンテンツを作れば人が集まる」という意味で広く使われるようになった。

そして実際にそうなった。ブログ、SNS、YouTubeと、個人が発信できるメディアが増え、コンテンツを作れる人が影響力を持つ時代が来た。「発信の民主化」だ。しかし今、AIによって情報を作るコストもゼロに近づきつつある。

「発信の民主化」の次に来たのは「生成の民主化」だ。届けるコストがゼロの世界に、作るコストがゼロのコンテンツが大量に流れ込んでいる。

こうなると、コンテンツの供給は実質的に無限になる。供給が無限なら、コンテンツそのものの価値はゼロに近づいていく。

メディアにしても、検索結果にしても、AIが書いた「そこそこ良い記事」が溢れかえる。キュレーションで選別しようにも、その選別自体をAIに頼ることになり、最終的には「AIが書き、AIが選び、AIが届ける」という人間不在の循環に向かっているように感じる。

では “Content is King” は終わるのか。

終わるのはコンテンツそのものではない。終わるのは「集客のためのコンテンツ」ではないだろうか。

SEO対策のために書かれた記事、バズを狙って量産されたコンテンツ、アテンションを集めることが目的の発信。こうした「集客装置としてのコンテンツ」は、AIが最も得意とするところであり、真っ先に置き換えられる。コンテンツだけで稼ごうとするモデルは、AIによって無効化されていくだろう。

一方で、実践や体験に裏打ちされた考察、つまり「活動の記録としてのコンテンツ」は残る。実際に何かをやった人が、その過程で考えたことを書き残す。そこには、AIには生成できない固有の文脈がある。同じテンプレートで量産できないし、時間が経っても価値は減らない。むしろ後から振り返ったときに意味が増すことさえある。

つまり大事なのは、コンテンツの質そのものよりも、「誰が書いているのか」であり、さらに言えば「その人は何をしているのか、何を為したのか」だ。コンテンツの裏側に実体のある活動があるかどうか。実力や実績を伴う発信だけが、信頼されるものとして残っていくのではないか。

そう考えると、これまでのコンテンツマーケティングの常識は逆転しないか。できるだけ多くの人に届けるための最適化、つまり集客のテクニックに注力するのではなく、実体のある活動に集中して、その記録を淡々と残していく。欲しい人に着実に届けばそれでいい。

この先さらにAIによるマッチングの精度が上がっていけば、プロモーションのテクニックなしに、必要な人に必要なコンテンツが届く世界がありうる。それはまだ仮説に過ぎないけれど、もしそうなるのであれば、それは実に健全な状態だと思う。

考えてみれば、ブログとは元々 “Web Log”、つまりウェブ上の記録だった。自分の考えや活動を、未来の自分のために書き残しておく場所。それがSEOやソーシャルメディアの時代に「集客装置」に変質していった。AIがその集客装置としての役割を終わらせるなら、ブログは本来の姿に戻ることになる。

“Content is King” の終焉は、ブログの終わりではなく、ブログへの原点回帰なのかもしれないな。

プログラマとは誰か〜プログラミングはコードを書くことではない

思考メモ

「AIがあればプログラマはいらなくなる」という話をよく耳にするようになった。たしかに、AIにお願いすれば動くコードが出てくる時代になった。人間がコードを書く必要などなくなった、と。それはその通りとしても「だから、プログラマは不要だ」というのは本当にそうだろうか。

そもそもプログラミングとは「コードを書く行為(コーディング)」のことではない。ソフトウェアで問題を解決する知的活動の全体を指している。何を作るか考え、何を作らないか判断し、どう構成するか設計し、動くものに仕上げ、運用し続ける。その一連の営みがプログラミングだと私は考えている。

今、AIはその全工程で力を発揮している。設計の壁打ち、コードの生成、テストの作成、ドキュメントの整備。人が手を使って何かをすることはなく、AIエージェントに指示することで、作られていく。プログラミングのあらゆる場面が加速するようになった。かつてのプログラミングとは、もう別物と言っていい。

その結果、プログラミングの敷居は確実に下がった。たとえば、経理担当がAIを使って自社の業務ツールを作れるようになるかもしれない。これまでコードを書けなかった人が、ソフトウェアで自分の問題を解決できる。これは「プログラマが不要になった」のではない。誰でもプログラマになれるようになった、ということではないか。

ただし、経理担当が作れるのは、あくまで自分の手元の業務を助けるツールだろう。会社全体の経理システムを設計し、セキュリティを担保し、長期にわたって運用し続けることは、また別の話だ。複雑なシステムになればなるほど、設計の質、判断の精度、責任を持って維持し続ける力が求められる。そこに、プロフェッショナルなプログラマの価値がある。

つまり、AIによって「プログラマが不要になる」のではなく「プログラマの裾野が広がる」ということだ。裾野が広がった上で、なお高い成果を出せるプロが求められる。これは、多くの仕事と同じ構造だろう。

私たちソニックガーデンでも、日々のソフトウェア開発でAIを積極的に使う試行錯誤を続けている。手でコードを書く時間は減っているが、プログラミングの密度はむしろ上がっている。何を作り、何を作らないか。どう設計すれば長く使えるか。考えることに、より多くの時間を使えるようになった。

プログラマとは、コードを書く人のことではない。ソフトウェアで問題を解決する人のことだ。AIの時代になって、その意味がようやくはっきりしてきたように思う。プログラマの裾野が広がることも大歓迎だ。

試行錯誤が面白いのは、主体性があるからだ

思考メモ

今日の取材の中で、ソフトウェア開発の面白さについて話しているうちに、自分の中で改めて気がついた。

もしかして、人が幸せを感じるのは、「挑戦→試行錯誤→成長」のサイクルが回っている時なのではないか。これは、難易度と能力のちょうど良いところにいる「フロー状態」の話ではあるけど、試行錯誤がポイントなのかもしれないな、と。

何かに挑戦する。難しいからすぐにはできない。試行錯誤する。できるようになる。成長を実感する。すると、もう少し難しいことに挑みたくなる。また試行錯誤する。またできるようになる。

このサイクルが回り続けている時、人は充実を感じているように思う。仕事とか趣味とか生活とか関係なく、ここに人生を充実させるヒントがありそう。

ただ、同じ試行錯誤でも、面白い時とそうでない時がある。

ゲームやパズルを自分で解こうとしている時の試行錯誤は楽しい。でも、誰かに「これ解け」と言われてやらされる試行錯誤は、ただの苦行になる。やっていることは同じなのに、まるで違うものになってしまう。

その違いは「主体性」があるかどうかではないか。内発的動機付けと言ってもいい。

自分でやりたいと思ってやっている試行錯誤は面白い。望んでもいないのに試行錯誤させられるのは、ただの労働であり義務でしかない。主体性がなければ、挑戦は義務になり、試行錯誤は苦痛になり、成長しても喜びにならない。

「挑戦→試行錯誤→成長」のサイクルを回すエンジンは、主体性なのだろう。

どんな仕事でも、単にお金を稼ぐための労働だと思っているうちは、このサイクルには入れない。だけど、仕事が自らの挑戦の機会であり、試行錯誤ができる場所であり、そこから成長が得られるものだと捉えることができたら、労働として過ごす人生よりも、ずっと幸せなんじゃないか。

それこそが、仕事を「技芸」とする考え方なのだ。

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